江戸庶民の結婚生活
前回も書きましたが江戸時代は女性が少ないということに加え、戦国時代と違って平和な世の中だったので武力より女性の暖かさが求められました。
「女三界に家なし」等という男尊女卑の考えはなく、江戸のかかあは「亭主と座布団は尻の下に敷いてこそ価値がある」と言ってたとか(笑)。
家庭で女が主導権を握っているように、料理屋等の商店でも女が男にかわって店を切り盛りし、経営権をがっちり握っていたそうです。
女性の結婚
女性が少なかったので幕府は女性に対し、「なるべく2度以上結婚するように」と勧めていたようで、再婚どころかバツ7婚くらいまで普通にあったようです。
年の差結婚にもまったく抵抗がなく、周囲の目もごく普通のこととしてとらえられていたそうです。
結婚式も簡素なもので、服装は普段着、大家さん立ち合いのもとでどぶろくを回し飲むくらいのもので、花嫁衣裳もなしです。
もっと簡単なものは 女性と荷物がいっしょに入ってくる「引っ越し女房」というものがあったようで、現代の「同棲」みたいなものですね。
ちなみに「夫婦別性」だったようです。
離婚する場合
婚姻届けは不要ですが離婚時には「離縁状」が必要で、それが「三行半(みくだりはん)」というものでした。
三行半には 離婚理由、再婚の自由が書かれていて、いわゆる「再婚免状」のようなもので 夫が書くことになっていました。
離婚を求めたのは圧倒的に妻のほうで、妻に去られた夫は世間的には「甲斐性なし」とみなされたようで、離婚時には妻の持参金すべてを返却する必要があったとか。
「去るときは90両では済まぬなり」という言葉が残っていて男性は大変だったんですねえ。
だから夫はなかなか三行半を書いてくれないことがあり、妻が強制的に書かせていたようです。
それでもどうしても書いてくれない場合は代官所や関所、寺院などに調停をお願いします。
それでも解決しない場合は「縁切り寺」へかけこんだそうです。
縁切り寺は鎌倉の東慶寺、群馬の満徳寺があったそうで、それでも合意できない時は妻は寺に入って尼さんになり、2~3年経過すれば離婚が成立するということでした。
庶民の住環境
9尺2間のワンルーム
江戸庶民の8割は賃貸集合住宅のいわゆる「9尺2間の裏長屋」だったそうで、現代でいうところの都心のワンルームマンションみたいなものでした。
間口の9尺は2.7m、奥行きの2間は3.6mで占有面積は9.9m2、畳の部分は4 畳半です。
そこに最小限度の家具である行灯やふとん、それに職人ならその道具類もおかれていました。
家賃はだいたい400文、1文=32.5円として約13,000円でした。
生活費としては親子3人で1か月1両(約130,000円)あれば十分暮らしていけたということです。
「9尺2間に過ぎたるものは紅のついたる火吹き竹」という都都逸が残っており、当時長屋で女房がいるのは男性にとって幸せ以外のなにものでもなかったようです。
女性が少ない江戸時代で、口紅をつけた口で火吹き竹を吹いて火をおこし、炊事をしてくれる妻がいる!というのは裏長屋の住民にとってはぜいたくなことだったんですね。
プライバシー
現在都心のワンルームマンションは上下左右前後の隣とは隔絶された空間になっており、プライバシーが確保されたものになっています。
それでも今一番多いトラブルはなにかと言えば、隣の生活音です。
当時江戸の長屋では隣との壁は薄くて、隣の物音はつつ抜けだったようですがお互いに協調する心があったようです。
朝晩のあいさつは欠かさず、お互いの生活に干渉しないというのが江戸人の粋とされていて、土足で他人の生活範囲に侵入することを恥じとする”都会暮らしのルール”を心得ていたようです。
刑罰が厳しかったこともあり、各長屋は施錠などせず、道を歩いても外から家の中が丸見えになっていても気にしないようなおおらかさがありました。
アメニティ
江戸庶民は街単位で暮らしており、長屋は単なるベッドルームだけのような感覚で、リビングは共同の路地や井戸端(井戸端会議というのはここからでしょうね)、ダイニングは街の料理屋や屋台、トイレ(厠)は共同だったようです。
トイレといえば、その当時のドアは下半分しかなく、ノックのかわりに咳払いをしたとか(笑)。
おふろは公衆浴場で、朝8時から夜8時まで営業、入浴料は大人8文(260円)子供5文(160円)だったようです。
何度か規制されたようですが、明治新政府の取り締まり(1869年)までは混浴だったようですが、湯槽は真っ暗で、洗い場は湯気もうもうで人の顔もみえなかったようです(若い娘の場合は常に母親かおばあさんがガードしていたとか)(笑)。
垢抜け
江戸人は相当おふろ好きだったようで、最低でも朝、夕の1日2回は入ったそうです。
そのため江戸人の肌はおふろの入りすぎで脂っ気がなくパサパサしていて、これを「垢抜けしている」と言って粋がったとのことです。
江戸時代の娘
1867年来日したフランス人ボーヴォワルは当時の日本の娘についてこう書いています。
にこやかで、小意気、陽気で桜色
ビューティ雑誌があった!
1804年~1830年に出回った「都風俗化粧簿」というのがありました。
そこでは当時のトレンドとして「美白」、「目力(目尻に薄く紅をひくこと)」、「たっぷり口紅」を特集しています。
既婚者のお歯黒は「何色にも染まらない」という決意の表れらしいですが、剃眉とともに当時の外人には不評だったようです。
アイドルがいた!
現在のAKB48の総選挙のようなものがありました。
素人娘を対象にした「娘評判記」というものです。
当時も今でいう「看板娘」というのがあり、年齢は12歳~18歳までで、20歳になると引退するという「身近なアイドル」が存在したらしいのです。
有名なのは谷中の笠森稲荷にあった「鍵屋」という茶店にいた「笠森お仙」です。
18歳で当時有名な鈴木晴信に一目ぼれされ、錦絵に書かれました。
その後、江戸の茶屋のお代が高騰したとか(一飲み100文、3,250円!)(笑)。
参考書籍
以上、江戸庶民は貧しくとも節度があり幸せな暮らしを送ったようですね。
なお、本記事を書く上で下記書籍を参照させていただきました。